今回は森郁夫著、「東大寺の瓦工」について印象に残った点をあげたいです。

わたしは古代の庶民の生活に興味があるので、東大寺の建築技術などについては触れません。歴史上でいろんな建造物を建てたのは権力者でなく、庶民ですもんね。現代でもそうですが。。。w
この本では、東大寺を建設する人たちの苦労について述べられている部分が多くてとても面白いです。
瓦工の勤務実態
東大寺造営に携わった瓦工の人たちの勤務実績が残っています。それはもちろん給与の支払いの計算のためだったと思われます。ただ記録は多くないので平均勤務日数はわかりませんが、労働の様子の一端を垣間見ることはできるでしょう。
物部乙万呂(または乙麻呂)という人物は、天平宝字三年(七五九)六月に24日間働き、残りの5日間は休暇か別のところで働いていたようです。
彼の給料の記録はないようですが、彼の同僚である同じく瓦工の額田部乙万呂は天平宝字6年頃、日当10文で働いていたようです。
中には日当6文の人や15文もらっている人もいて、技術力などの差によって給料にも差が出ていたようです。
ではその日当で暮らしが成り立つのかというとかなり難しかったようです。なぜならほかの下級役人についても、現代のブラック企業に負けない勤務実態が記録されているからです。
例えば、写経生として働いていた私酒主という人物は、1か月のうち日勤30日、夜勤29日という苛酷な勤務で、昼となく、夜となく一生懸命働いていた実態があります。

また、時代は物部乙万呂より約50年前にさかのぼりますが、長屋王の変で有名な長屋王の邸宅で働いていた出雲臣安麻呂なる下級役人は年間に日勤330日、 夜勤185日という記録が残ってるそうニャ💦
借金生活
宝亀3年(772年)9月に物部乙万呂は借入をし、その証文がのこっています。*ただし、この人物が前項の乙万呂と同一人物かどうかはわからないそうです。およそ20年の開きがありますしね。

証文によると、物部乙麻呂はこの時、唐広成という男と共に1貫500文、乙麻呂が1貫文、広成が500文借り、その翌月に元利合わせて1695文を返済していました。当時の利息は1か月の利率が1割3分で、この利率も翌年には上がり1割5分となったそうです。
お金を借りるのには質、すなわち抵当をいれ、証人を立てる必要があり、ふたりは翌月に支給されるは ずの冬の衣服料である絹の布で弁済することを条件にしています。そして更に質物として、板葺きの建物二棟を入れています。これは家を二軒もっているわけではなく、一棟は納屋だそうです。
彼ら2人の保証人となったのは三嶋船長。遅くとも天平宝字6年頃から造東大寺司に仕えていた人物らしく二人とは知り合いだったのかもしれないそうです。
一緒に借金をした唐広成は造東大寺司の漆工で、天平宝字6年には法華寺阿弥陀浄土院に派遣されて仕事していたようです。

正倉院文書の中には借金の証文(正式に言えば申請書)が、数多く残されているそうです。借金しないと生活が成り立たないのか、借金して生活をすることが当たり前の社会だったのか興味深いにゃ
食生活
天平宝字3年(759年)6月29日付けの造瓦所の文書によると、
支給されたのは米、塩、海藻である。彼等下級官人の 食事は飯にわかめやミルなどの海藻を入れたスープが添えられるだけの質素なものでした。平城宮で働いていた同じような役人達も同様で、食料請求を記した木簡がかなり出土しているようです。
役人でもちょっと上の立場になると海藻の支給される量が多かったそう。海藻ってどうやって食べたんでしょうね。味噌のルーツ醤(ひしお)を使ったスープにでも入れたんでしょうか。

中には「塩なきはこれ いかに・・・・・・」と、塩がないままに支給されてしまったことを記したものもあり、料理人が塩を入れ忘れてしまったのかニャw
庶民というのはいつの時代でも生きていくのに苦労が多いですね💦
奈良時代も現代とあまり変わらない悲喜こもごもとした様子が見て取れて共感がわきます。




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