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仇討考 仇討制度の総点検 – 大津 千明

仇討は、主君・父・兄弟などが殺害された場合、その家臣・子・親族などが報復として加害者を殺害することをいう。仇討は明らかに殺人であるが、わが国では、この殺人を江戸幕府が公認して処罰の対象から除外し、明治新政府によって『復讐禁止令』が制定されるまでの間、長期にわたって行われていた 歴史
仇討考 仇討制度の総点検 - 大津 千明

面白い新刊を見つけました。

仇討ちの実態が詳細に述べられていてとても興味深いです。

私は奈良時代が好きなので、古代でも仇討ちがあったのか、そして同時代の外国、特にアジアではどうだったのかという考えがよぎり調べました

古代・奈良時代における仇討ちの存在と実態

日本の歴史において「仇討ち」は侍文化の象徴的な慣習として知られていますが、その起源は武士が台頭する中世よりもさらに古い時代にまで遡ります。本報告では、古代・奈良時代における仇討ちの存在と実態について、史料に基づいて詳細に検討します。

史上最古の仇討ち事例:眉輪王の変

史料で確認できる日本史上最古の敵討ち事例は、『日本書紀』巻十四雄略紀に記録されている「眉輪王の変」で、安康天皇3年(456年)に発生したとされています2。この事件は奈良時代(710-794年)よりも約250年以上前の出来事で、古代における復讐の概念を示す重要な事例です。

事件の経緯は次の通りです。眉輪王の義理の父にあたる安康天皇は、かつて眉輪王の実父である大草香皇子を殺害し、その後、眉輪王の母である中磯皇女を自らの妃としました。ある日、安康天皇が過去の出来事をうっかり口にしたことで、その事実を知った眉輪王は、安康天皇が熟睡している隙を突いて刺殺したのです。

注目すべきは、事件後の眉輪王の発言です。動機を追及された際、眉輪王は「臣元不求天位、唯報父仇而已(私は皇位を狙ったのではない、ただ父の仇に報いただけだ)」と答えています。この発言は、すでに古代において「父の仇を討つ」という復讐の概念が存在し、それが一定の道義的正当性を持つものとして認識されていたことを示唆しています。

古代・奈良時代における仇討ちの位置づけ

「眉輪王の変」の事例は存在するものの、古代・奈良時代において仇討ちが制度化されていた証拠は見当たりません。検索結果によれば、敵討ちが社会的慣行として広く見られるようになったのは「武士が台頭した中世以降のこと」とされています。

奈良時代には律令制度が整備され、国家による刑罰制度が確立されつつありましたが、その一方で血縁関係に基づく私的制裁の概念も残存していたと考えられます。「眉輪王の変」は、そうした古代における私的復讐の一例として位置づけられるでしょう。

中世以降の仇討ちとの大きな違いは、制度化の有無にあります。江戸時代の敵討ちは「直接の尊属(親・兄)を殺した者に対する復讐」として定義され、実行するためには「主君の免状や奉行所への届け出が必要」という明確な手続きが存在しました。一方、古代における復讐行為にはそうした制度的枠組みは確認できません。

中世以降の仇討ち制度との比較

中世以降、特に武士階級の台頭に伴い、仇討ちは「その血族意識から起こった風俗として広く見られるようになり」、江戸時代には幕府によって法制化されるに至りました。これは古代の個人的な復讐行為から、社会制度として認知された仇討ちへの変遷を示しています。

江戸時代の仇討ちでは、「殺人事件の加害者は、原則として公権力(幕府・藩)が処罰することとなっていた」ものの、「加害者が行方不明になり、公権力がこれを処罰できない場合には、被害者の関係者に処罰を委託する形式をとることで、仇討ちが認められた」という制度的背景がありました2

これに対して古代・奈良時代の復讐行為は、公的な制度というよりも、個人的な道義感や血縁意識に基づく行為として行われていたと考えられます。「国家的な法制のない時代にあっては、何らかの方法で、直接行動をとらざるを得なかった」という側面があったでしょう。

結論:古代における仇討ちの実態

検索結果から確認できる情報をまとめると、古代・奈良時代における仇討ちの実態について次のように結論づけることができます。

古代日本においても復讐の概念は存在し、「眉輪王の変」のように父の仇を討つという行為が実際に行われていました。しかし、これらは後世のような制度化された仇討ちではなく、個人的な復讐行為の域を出ないものでした。仇討ちが社会制度として確立したのは、武士階級が台頭する中世以降のことであり、江戸時代にその形式が完成されたと考えられます。

奈良時代そのものの仇討ち事例については、提供された検索結果からは具体的な記録を確認できませんでした。奈良時代は律令制度が確立した時期であり、国家による刑罰制度が整備されつつあった時代背景を考慮すると、個人的な復讐行為は抑制される方向にあった可能性もあります。

古代から中世、そして江戸時代へと続く仇討ちの変遷は、日本社会における私的制裁と公的刑罰の関係性の変化を反映していると言えるでしょう。

唐代中国と新羅韓国における復讐・仇討ちの比較

歴史上の「仇討ち」や「復讐」の文化は多くの社会に存在していますが、その性質や制度化の程度は地域や時代によって大きく異なります。本報告では、東アジアの隣接する二つの古代国家―中国唐代と韓国新羅時代における復讐文化について、限られた史料から考察します。

唐代中国における復讐の文化と実践

中国唐代において、復讐は社会的に認識された概念として存在していたことが確認できます。検索結果からは特に極端な形態の復讐行為について知ることができます。

人肉食としての復讐行為

唐代における復讐の一形態として、敵対者の死体を食すという行為が記録されています。これは現代の感覚では極めて異様に映りますが、当時の文化的・宗教的文脈で理解する必要があります。

この行為は大きく三つのカテゴリーに分類されています:

  1. 棄市(きし)された権力者の死体を民衆が憎悪から食す事例
  2. 復讐を目的として怨敵の肉を食す行為
  3. 不忠の輩に対する制裁としての行為

具体的な事例としては、則天武后時代の悪名高い官吏・来俊臣や、則天武后の寵臣であった張易之・張昌宗兄弟などが殺害・処刑された後に、その肉が食べられたという記録が残っています。

復讐行為の意味づけ

これらの極端な復讐行為が行われた背景には、単なる残虐性だけでなく、宗教的・文化的な意味づけがあったと考えられています。「死後の肉体を破壊し、その心肝を食することによって、怨敵の魂の再生を不可能にすること」が、こうした行為の主な動機であった可能性が指摘されています。

つまり唐代における復讐は、単に相手に苦痛を与えるだけでなく、敵の霊的な存在そのものを無力化するという観念と結びついていたことがうかがえます。

新羅時代における復讐に関する史料的制約

新羅時代の復讐・仇討ちに関する直接的な記述は、提供された検索結果からは確認できません。歴史書や伝説の記録には、新羅と他国(日本、百済、高句麗、唐など)との戦争や外交関係についての言及は多くありますが、個人間や集団間の復讐行為に関する具体的な記述は見られません。

文化的背景からの考察

新羅は7世紀に唐との同盟関係を強化し、文化的にも影響を受けていました。武烈王(金春秋)の時代には「積極的に唐化政策を採用するようになり」、唐との関係を重視していたことが記録されています。

この歴史的背景を考慮すると、新羅社会においても唐の文化的影響下で類似の復讐観念が存在した可能性は否定できませんが、具体的な事例や制度についての情報は現在の検索結果からは得られません。

東アジアにおける復讐文化の比較的考察

限られた情報からではありますが、唐代中国と新羅韓国、さらに日本の復讐文化について比較考察を試みます。

制度化の程度による比較

日本の仇討ちが江戸時代に「幕府公認の制度」となり、「事前届出制で細かいルールが定められた」2のに対し、唐代中国における復讐行為は、少なくとも提供された情報からは、そのような公的な制度化の形跡は見られません。むしろ、棄市された権力者に対する民衆の憎悪の表現として自然発生的に行われた側面が強いと考えられます。

新羅については情報が不足していますが、白村江の戦いの後、「新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた」という記述から、国家レベルでの報復行為は確認できます。しかし、これは個人間の仇討ちとは性質が異なる政治的・軍事的な対立です。

宗教的・文化的背景

唐代における復讐行為、特に人肉食としての復讐には、「怨敵の魂の再生を不可能にする」1という宗教的背景があったことが示唆されています。これは当時の中国における霊魂観や死生観と密接に関連していたと考えられます。

一方、日本の仇討ちは「子が親の仇を討つなど主に血縁関係がある目上の親族のために行われ」2るものであり、家族的・血縁的な倫理観に基づくものであったことがわかります。

結論:史料的制約と文化的文脈

今回の調査から、唐代中国においては復讐の概念が存在し、特に権力者に対する極端な形での復讐行為(人肉食)が記録されていることが確認できました。これらの行為には宗教的・霊的な意味づけがあったと考えられます。

一方、新羅時代韓国における復讐・仇討ちの具体的な実践については、提供された史料からは十分な情報を得ることができませんでした。新羅が唐の文化的影響を強く受けていた点を考慮すると、何らかの復讐観念が共有されていた可能性はありますが、それを実証するためにはさらなる史料調査が必要です。

両社会の比較という観点では、唐代中国の復讐行為が宗教的背景を持つ自然発生的な現象として記録されているのに対し、日本の仇討ちは江戸時代に制度化され、明確なルールのもとで実践されていたという違いが浮かび上がります。新羅についてはさらなる研究が必要ですが、この比較からも東アジア諸国における復讐文化の多様性と複雑性がうかがえます。

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