元禄7年(1694年)に旱で困った百姓が新しい雨池(ため池)をつくりそれぞれの集落に分け隔てなく水を通すことを申し合わせた内容です。現在の泉小学校に隣接した白山神社の隣にある仲森池のことですね。よく見ると池はふたつに分かれています。南側がもともとあった古いため池でその北側にある小さい池が今回新たに百姓が作った新しい雨池になるようです。
原文



翻刻文(間違いあるかも)

現代文
大富村の三組が立ち会い、祖母懐の新しい雨池に関して、水の配分を計画し、お互いに協議・決定したことを記した証文である。
第一に、大富村の事情として、毎年水不足による被害が生じて困っていたため、今度新しく雨池を築くことを計画した。その新しい雨池が完成した後における水の配分について、次のように取り決める。
古い西池の水が枯れ切って、水不足による被害が出るような場合、新しい雨池から古い池へ水を流すこととする。その際、西側の堰は倹しく閉じて管理すること。
三組より庄屋が立ち会い、村中の御田地をすべて実地に検分し、問題や異議の出た場所については、鳥居前の場所で水の割り付けを行うこととする。
水の通路のない場所で、水不足による被害が出るようなときは、検分のうえで新しい水に道(水路)を付けて、互いに人間関係や身分による偏り(御贔屓)に頼らず、水を引き入れ通すものとする。
この新しい雨池の件を御代官様へ正式に届け出たところ、百性(百姓)の勝手次第でよいから、その都合に合わせて十分に尽力して行うように、と仰せつかったため、この雨池を築造することにした。
この証文は、三組それぞれへ一通ずつ同内容の文言を取り交わし、お互いに合意した上で、その後において水の配分に関して互いに違反せず、必ず守り合うこととするため、後々もこの証文をここに記した通り遵守するものである。
水の配分に関して、この文書に記した通りでなければならない。
この新雨池の件は、御代官様へ御内達して許可を得たうえで、百性の勝手(村の判断)次第で、随分と尽力して行うようにと仰せられたため、これを取り立て(築造・実行)するものである。
この証文は、三組にそれぞれ一通ずつ同文を渡し合って、合意・決定したものを、その後の水の配分において互いに違反せず、必ず守り合うこととするために、後々までこの証文をここに記した通りとするものである。
元禄七年戌年の十月三日(1694年)
土岐郡大富村庄屋七左衛門(下組)
同断 庄三郎(上組)
同断 左治右衛門(窯郷)
年寄 甚右衛門
年寄 傳七
同断 孫三郎
惣百姓表書に記した雨池は、年々修理・改修し、水不足になったときの水の引き方を勝手に変更してはならない。
そのため、この裏書として、ここに記した通りとする。同日
柴山日野右衛門印
篠田知科加右衛門印
篠田浩右衛門印
ここで「祖母懐」はいったい何なのかということ。
土岐市にはそのような地名はなく、古文書勉強会の面々も聞いたことがないとのこと。愛知県瀬戸市に「祖母懐町」がありますがこちらとは関係なさそうです。
それで調べたところ👇
「祖母懐」の字面の意味は、地名語として「そぼかい」(古くは「うばがふところ」)と読み、三方を丘陵に囲まれ日当たりの良い温暖な場所を指します。これは、祖母(乳母)の懐のように暖かく包まれる様子を表したもの
とのことです。たしかに仲森池は東・北・西部分が高く南は開けています。まさに「三方を丘陵に囲まれ日当たりの良い温暖な場所」なのです。300年前の人に聞いてみないと真偽は不明ですが当たっていそうですよね。
これが古池で今の仲森池の南側

こちらが新池、北側


私は住所で言えば「下組」に住んでいることになり300年前庄屋七左衛門さんのお世話になっていたことになりますね。




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