
一橋大学名誉教授・人間文化研究機構理事 若尾政希先生の講義を受けました。
先生は土岐市出身で、今年一橋大学を定年されたそうです。3年前から土岐市民大学講座に出ておられます。
今回の講義の理解を深めるためにいただいたレジュメに基づいて面白かった点をまとめてみました。

講座内容
江戸時代は商業出版が成立し、さまざまなジャンルの本が出版され ました。1697年(元禄10)には日本最初の刊行農書である「農業全書』が出版され、明治に至るまで読まれ続けました。今回の講義では、この「農業全書』に焦点をあわせて、その歴史的意義を考えます。
そもそも農業とは何か
人類は、農業を開始する前の、狩猟採集に依存する自然段階から、人為的に農業生産を行う段階へと、大きく転換 して今日に至っていることになる。近年、「自然・環境に優しい農業」というスローガンを しばしば耳にするが、もともと農業は人為であって、自然に働きかけ、自然にストレスをかける行為にほかならない。

日本列島に住んでたひとがどんな農業観を持っていたのかわかれば面白いけど、日本には文字がない時代が長かったから、そんな史料は残っていない。
商業出版の成立と発展
それが近世、一七世紀の初めになると商業 出版が成立・発展し、刊行された書物(版本)と、書写された書物(写本)とが各地に流通し読まれるようになった。
この書物の時代の到来で、農業のあり様が文字を使って書かれるようになった。
農書の時代の始まりである。「農業全書」以前にも、「百姓伝記』等、いくつかの 農書が作られてはいるが、大量の農書のほとんどは、元禄一○年(1697)に出版された日本最初の刊行農書『農業全書』の刺激を受けて述作されたものである。
農業全書はいかにして作られたのか
農業全書の作者は、宮崎安貞(1623~1697)。安貞は広島藩士の子として生まれ、25歳のときに福岡藩に仕えたが5年ほどで辞め、筑後国糸島郡周船寺村女原字小松原(現在の福岡市西区女原)で終生、農業を行った。
安貞が農書を書いた理由は、農民が農業の方法・技術に疎いことを嘆いたためだった。
執筆のプロセス
①中国の農書「農政全書」徐光啓撰(明、崇禎12年<1639>刊)を参考にした
②そのうち日本の風土に叶い農耕の参考となる事柄をえらんだ
③ 自分の40年間の農業体験での取り組み、畿内・諸国に経巡って老農に尋ねたことをとりまとめた。
④旧友の貝原楽軒に校正をたのんだ。

貝原楽軒は有名な儒者貝原益軒のお兄さんで、農業全書の内容や出版にも関与したと考えられている。
日本の畜産
中国の「農政全書」と安貞の「農業全書」の大きな違いは家畜の取り扱いである。
日本では牛馬を食用の家畜ではなく、農耕用の役畜であって、食べる対象ではなかった。
取り上げているのは、鶏と卵、そしてアヒルくらいであった。
魚については、水畜として鮭と鯖を取り上げている。

アヒルを推奨したのは、農業ができない障害者が生きるために利潤を望めるからだそう。
家畜はいつから家畜なのか?
平凡社世界大百科事典の定義
家畜とは人間の生活に役立てるために、野生生物から遺伝的に改良した動物である。
旧約聖書
家畜は神が人の食べ物として作ってくださった。

キリスト教世界では、家畜の起源は自明で問題にしてはいけないんだって。へんなの。。。
安良城盛昭氏
安良城によると人類史の起源から人間と他の動物を区別するポイントは「家畜を持ったこと」を挙げている。
①人間とは所有する動物のことであって、所有を知らない他の動物と本質的に異なる。
②人間自らが動物でありながら主人となって、有用と思われる他の動物を家来=家畜として所有・支配する点でも他の動物と全く異なる。百獣の王ライオンといえども家来=家畜をもたない

おもしろい~!
日本独自の非畜産農業
人類は、家畜と農作物の品種改良を不断に続け、今日に至っているのであるが、日本列島では大型哺乳類の家畜化は行われず、それらはいずれも外部からこの列島に持ち込まれた。最初に登場するのは犬であり、神奈川県横須賀の夏島貝塚で92000年前の骨が見つかっている。縄文時代の犬 (縄文犬) は柴犬に似た小型犬で狩猟に使われ、埋葬例があることが知られている。弥生時代に入ると稲作が導入されたが、まだ牛も馬もいなかった。農耕をしながら畜産は行わない、世界でも特異な非畜産農業がこの時期に成立した。

面白いです!日本はほかの国と違って肉食がすくないのはもともと動物がいなかったせいもあるけど、仏教思想によって肉食があまり好まれていなかったというのもあるそう。

でも全く食べなかったわけじゃなくて、奈良時代にも牛や馬が食べられていた記録がある
品種改良への情熱
日本人は前項のように家畜の扱い未熟だったが、農作物に ついては種を選びよりよい品種 (品種改良)を作りだしてきた。『農業全書』にはその記述から様々な農産物の品種改良がおこなわれていたことがうかがわれる。

奈良時代にはすでに日本各地で多くの品種の稲が栽培されていることが、遺跡から発掘された子札種子札から明らかなんだって。すごいな日本人!
多品種複合農業
「農業全書」には、五穀・菜・山野菜・三草・四木・菓木・諸木・園に作る薬種までの、多様な品種の栽培法が説かれている。従来の研究では、一部の品種が商品(特 産物)化されて利益を生むという側面(すなわち商品作物)だけが注目されてきた。確かに『農業全書」には各地の特産物について記述している。しかし、より重要なのは、農家を維持していくためにさまざまな品種の作物を栽培していく、多品種複合農業とでもいうべき農業が、「農業全書」の中に描かれていることである。そして、これは近世の農業 の実態を踏まえたものであったと推定されるのである。
古代以来、この列島の住人は多品種複合農業を行ってきたのであ り、米だけを作ってきたわけではないのである。
ここで先生がご自身を振り返って
先に我が家の歴史として叙述したことは、実は一九五○年代から六○年代の高度経済成 長期に、日本全国に見られたことである。我が家のような小農が米単作農家となったり、離 農したりしたのである。それが、今になって、米単作農業から脱却して畑作物や野菜を組み 合わせ、安定的な多品種複合農業を確立することが大事であると言われるようになってきて いる。
「農業全書」の農業から学ぶべきことは今も大きいといえよう。

これには100%同意します。単作は自然の摂理から外れているし、自然により大きいストレスをかけるから。効率ばかり考えてたらだめだよね。
さまざまな農書
「農業全書」が出版された後、地方農書を作る人びとが現れた。地方農書の作者は、藩の地方役人や、村役人を務めるような上層農民であることも多かった。それは、日本列島が東西に細長くて気候が違い、また海辺の低地から高山の麓や盆地まで多様で気候の変化が激しく、同一の基準で農作物を育てることができない。「農業全書』の読者はすぐにこれに気づいたようで、地方農書の冒頭には、「『農業全書』は優れているが、残念ながら我が風土にはそのままでは通 用しないので、新たに農書を作ったのだ」等と主張するのが常であった。こうして、日本各地の「風土」の違いに気づいた者たちにより、地方の農書が編まれていった。
感想

いま、市販されている家庭菜園などの本は、地方の気候を考慮したものが少ないと思う。江戸時代のように、最初から地方ごとの農書があったらいいなと思う。

講座の内容はもっと盛りだくさんでした。それらをもっと掘り下げていきたいと思います。




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